こんにちは!ツクです。
視聴率の低い大河ドラマ「いだてん」ですが、大河の王道から外れた現代を描く作品であることも視聴率が低い原因ではないかと思います。
しかし、オリンピックがまだ日本の世に知られない中で、日本が初参加し、スポーツの普及につとめた人々の苦労がわかり、非常に興味深いドラマです。
今は、女子スポーツに焦点が当たり、大変興味深く見ています。
次回は、いよいよ女子スポーツ黎明期のスター達が登場してきます。
その中でも、注目は人見絹枝。
「人見絹枝とは誰?どんな活躍?死因やお墓はどこに?遺した名言も!」と題して、人見絹枝さんに迫ってみたいと思います。
それでは進めてゆきましょう!
人見絹枝とは誰?どんな活躍をした人?
人見絹枝といえば、陸上界のスター、日本で初めてのオリンピック女性メダリストです!
しかも走り幅跳びでは、世界記録保持者でもありました。
人並外れた運動神経の持ち主でした。
NHK「いだてん」で話題 嘉納治五郎と人見絹枝の掛け軸展示 愛媛 https://t.co/6TDIzUgGte
— 毎日新聞ニュース速報 (@mainichijpnews) June 5, 2019
経歴
物凄い人物です。
人見絹枝は、1907年1月1日、岡山県御津郡に生まれました。
1920年4月に、岡山県高等女学校(現・岡山県立岡山操山高校)に入学し、テニス選手として活躍します。
1923年11月、第2回岡山県女子体育大会に陸上競技選手として出場、走り幅跳で非公認ですが4m67の当時日本最高記録で優勝しています。
1924年4月、二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)に入学し、塾長の二階堂トクヨから体育の指導を受けます。
人並み外れた体力の持ち主だったんでしょうね。
10月には大会で三段跳で10m33の当時世界最高を記録するのです。
11月には三段跳で10m38、やり投で26m37を記録、尋常ではないですね。
1925年、二階堂体操塾を卒業後は、京都市立第一高等女学校の体操教師に赴任します。
その後、二階堂体操塾の研修生となり、専門学校認可を助け、塾から財団法人日本女子体育専門学校となりました。
人見絹枝の記録はとどまるところを知りません。
大会で50メートル競走6秒8で優勝、三段跳で11m62を出し世界最高記録を更新します。
1926年4月に、大阪毎日新聞社に入社、運動課に配属されました。
その年の女子競技会に出場し50mは7秒0で優勝、三段跳は10m76で優勝。
さらに次に出場した大会では、100mは13秒6で優勝、砲丸投で9m97の日本新記録を出します。
また、女子の国際大会に日本人としてただ一人出場し、走幅跳で5m50の世界記録で優勝、立ち幅跳びで2m47で優勝、円盤投は32m62で2位、100ヤード走は12秒0で3位、60mで5位、250メートル走で6位。
個人得点15点をあげて、国際女子スポーツ連盟の名誉賞を授与されています。
凄いですよね!
研究熱心な人見は、海外で見聞を広め、自分のトレーニングに生かすとともに、著書を著して後進に伝えました。
1927年4月、人見は谷三三五にコーチを依頼し、大会に出場します。
早速、200メートル走で26秒1、立ち幅跳びで2m61の2つの世界最高を記録、走幅跳も5m54で優勝します。
そしてオリンピックには、1928年のアムステルダムオリンピックに日本女子選手として初出場します。
そして女子の個人種目全て(100m、800m、円盤投、走高跳)にエントリーします。
残念ながら走幅跳は採用されず、人見は100m一本に狙いを定めます。
100m予選は1着で通過したものの、準決勝は12秒8で4着となりまさかの決勝進出を逃してしまいます。
800m予選にターゲットを切り替え、見事銀メダルを獲得しました。
人見絹枝の死因やお墓はどこに?
その後も数々の国内大会や、国際大会に出場し活躍します。
競技者として自らを追い込み、そして後進の育成、講演会、大会の費用工面と、忙殺されます。
国際大会で、風邪を引いて無理をしたようです。
国際女子オリンピック大会では、前回より結果が悪いとマスコミや世間からの風当たりが強く、体調悪い中を無理をして、休みなしで新聞社の仕事や、募金活動などに精力をだします。
しかし、頑健な人見の体も相当蝕まれ、1931年3月25日に早朝、ついに喀血し、肋膜炎で阪大病院別館に入院します。
そして、その後に肺炎を併発し8月2日、乾酪性肺炎により24歳の若さで亡くなりました。
奇しくも、アムステルダムオリンピック800m決勝の日から、ちょうど3年後の日でした。
さて、お墓なのですが、不思議なことに岡山ではなく
人見絹枝さんのお墓は青森県八戸市の本覚寺にあります。
藤村テフさんというマネージャーのような後見人がいらっしゃいました。
大変親しい間柄だったようです。
この藤村さんの強い希望で藤村家のお墓に、若くして亡くなった人見さんのお骨を分骨したのだそうです。
人見絹枝の遺した名言
大河ドラマ「いだてん」の中でも表現されていましたが、当時女性が足を見せるだけでもセンセーショナルな時代、人見絹枝の姿は、今から想像もつかぬ抵抗があったことでしょう。
情熱や魂を込めて一心不乱に活動していたにもかかわらず。
そんな中でも意思を貫いた彼女は、どんな言葉を残しているのでしょう。
「愚かなりとも、努力を続ける者が最後の勝利者になる」
愚者のように、ひたすら追い求め、努力を続け、ひたすら信じ突き進むことで、きっと何かを成し得るものでしょう。
人見絹枝の生涯は、時間的には短いものでしたが密度の濃い、決して長さだけでは測り得ないものでしょう。
人生は限りあるもの、誰しもが何かを成したいと思い、成し得ぬまま過ぎ去った時間を呆然と眺めてしまいます。
愚か者と言われようとも愚者のごとく、信じる道をひたすら追いかけてゆきたいものです。
「いくらでも罵れ、私はそれを 甘んじて 受ける。
しかし、私の後から生まれてくる若い選手や、日本女子競技界には、貴女等のような者に、指一つ触れさせない。」
オリンピックで銀メダルをとったあとの言葉です。銀メダルをとったあとの。
いかに女子が運動をするということが、当時の社会において厳しいものなのか、伝わってきますね。
彼女の苦しみがあってこそ、今の女性の活躍が当たり前に称賛される時代になったのでしょうね。
そして彼女が降ってくる矢をすべて受けて、力尽きたのだろうと、涙すら覚えます。
さて、大河ドラマで人見絹枝役を演じるのは、大変話題になっていますが、ダンサーの菅原小春さんが演じます。
紅白歌合戦で坂本冬美とのコラボでダンスを披露して話題になりましたね。
独自のダンススタイルを追及し、若くして世界に名を知られるようになりました。
そして、アメリカのフォーブス誌2019年「30 under 30」世界に影響を与えるアジアの30歳以下のタレント30人の1人としてエンタメ部門にて選出されました。
どこか人見絹枝と通底する彼女の演技が楽しみでなりません。
まとめ
大河ドラマ「いだてん」に登場する人見絹枝は、オリンピック女子陸上で初めてのメダル(銀)を獲得する選手です。
風邪で熱があろうと大会に出場し、後進の為に女子陸上を普及しようとし、20代半ばにして、肺炎で亡くなりました。
人見絹枝さんのお墓は青森県八戸市の本覚寺にあります。
藤村テフさんというマネージャーのような後見人の願いで分骨したのだそうです。
人見絹枝さんは「愚かなりとも、努力を続ける者が最後の勝利者になる」などいくつかの名言を残していらっしゃいますが、人見さんならではの深い言葉です。
「人見絹枝とは誰?どんな活躍?死因やお墓はどこに?遺した名言も!」と題してまとめてみましたが、いかがでしたでしょうか?
最後までお読みくださり、ありがとうございました!
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