8月6日原子爆弾が広島に!73年前の8時15分への被爆二世の思い

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今年2018年は、異常な暑さの日が続いています。

今年は早い梅雨明けと同時に早くも真夏日が続きました。

そうかと思えば、一方で記録的な豪雨に襲われ、西日本は想像を超える大きな被害がもたらされました。

なすすべもなくあれよあれよと思う間に、荒れ狂う雲と雨と風が人々を襲いました。

しかし、あの信じられないような自然の暴力的な力も、過ぎてしまえば空には青い空が広がり、白い雲が浮かび、いつもの太陽が光を注ぎ、人々の日常が動き始めました。

災害の苦しみや悲しみの中でも、生きる人々はただ傷ついた心を胸に、明日へ向かって日々の生活を淡々と続けてゆくしかありません。

そして、いつしか時は流れ、いつしか四季は移ろい、そして又夏がやってきます。

 

8月6日、あの日から数えて73回目の今日がやってきました。

私は今、故郷の広島を離れて千葉で生活をしています。73年前はまだこの世に生を受けていません。

当時幼かった父は家族と共に生活する広島の空の下で恐ろしい体験をしました。被爆二世としてこの日はいつも特別な思いで迎えます。

「8月6日原子爆弾が広島に!73年前の8時15分への被爆二世の思い」として特別な今日について書きます。

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8月6日8時15分に原子爆弾が広島に投下された時

父の家族は、5人兄弟と祖父、祖母の7人で今の平和公園から歩いて10分程度の住宅街で暮らしていました。

戦況が悪化するとともに、家族は二つに分かれ、父を含む幼い子供3人は祖父とともに、広島市内ながらもちょっと離れた場所で暮らし、長女と長男と祖母は広島の中心部で暮らしていたのです。

その日8月6日は普通の夏の日の朝でした。しかし8時15分に向かって、原子爆弾を積んだエノラゲイは、広島を目指していました。

実は軍部は察知していました。米軍は新型の爆弾を研究している事、飛行機が飛び立ち広島に向かっている事。

しかし、既に戦況が混乱を極める中、統制力を失った軍部は、情報を入手するも広島に空襲警報すら発することが出来なかったのです。

晴れ渡った空を、銀色の機体は真夏の太陽の光を反射しながら静かに広島に近づき、静かに原子爆弾を投下したのです。

そしてその時、昨日と同じように、一瞬前と同じように生活を続けていた人々の頭上で、突如として原子爆弾が炸裂したのです。

人間の手によって、人間の意志によって人々を傷つける目的でその爆弾は投下され、平凡な日常が一瞬にしてその信じられないほどの熱により、爆風により日常を吹き飛ばしたのです。

その瞬間人々は何を思ったでしょう、突然の出来事にわけもわからなかったでしょう。

 

その時、祖母は娘と息子を送り出し一人家にいました。

長男は、軍隊への補給部隊として軍務に出かける為、市内電車に乗っていました。

長女は高校生の勤労奉仕として、逓信局へ行っていました。

まだ小学生だった父の兄弟たちは広島の中心部からちょっと離れた小学校で、朝礼の為外に出ていました。

 

原子爆弾がさく裂した時、祖母は家の中にいて、爆風で家が倒壊し建物の下敷きとなりました。

長男はたまたま電車の前方ででつり革をつかまって立っていました。その時、電車の後ろ側から光を浴び、後ろにいた人々が焼け爛れました。

幸いにも光を浴びなかった長男は、ひどいやけどを負った子供を抱きかかえて医者に預け、家へと急ぎました。

その頃、祖母のいる倒壊した家に向かって火の手が近付いていました。長男が助けに来たことに気づいた祖母は、しかし背中に柱が倒れ込んでいた為、声を出すこともできず、なかなか気づいてもらえません。

やっとの思いで声を絞り出すことが出来て、危ういところで長男に救出されたのです。

父たち幼い兄弟は、その時、彼らの目の前の校舎の向こう側で、多くを殺傷した光が煌めき、直接光を浴びる事はありませんでした。

しかし爆風で瓦が飛びガラスが割れ、多くの子供たちが負傷しました。

傷ついた父たち幼い兄弟は、祖父の元へと帰り、別れて暮らす家族の身を案じました。

そのうち祖母と長男が帰ってきました。

。。。しかし長女は何の音沙汰もなく、帰ってくることはありませんでした。

父と祖父は、火も収まった後、長女のいたはずの逓信局へ行きました。そこは今の原爆ドームの裏手にあたり立派だった建物は瓦礫と化していました。

そして人も何もかも全てを燃やし尽くしていたのです。

いくら探しても手掛かりとなるものすら見つかりません。

最後に誰のものかもわからない、一片の骨を拾い帰宅、長女が戻る事はありませんでした。

家族に突如襲い掛かった悲劇ですが、しかし市の中心部に住んでいながら7人中6人生き残ったのは奇跡的な事でした。

近所では一家全員亡くなった家も多いのです。

8月6日の出来事が心の底に残した傷

原爆投下後、放射能により長く復興する事はないだろうと思われた広島は、生き残った人々が明日へ向かって動き始め、父の家族も結束して材木を集めて家を作り生活を始めました。

生きるということは前に進む事です。昨日までの日常をまた今日も繰り返す事です。

悲しみは心に秘め、ただ生きるという目的のために、明日へ向かって一歩、もう一歩と歩みを続ける事です。

焼け野原となった街に、次第に人々の生活が広がり始め、8月16日の原子爆弾による破壊の日から、少しづつ元の生活をとりもどしていったのです。

しかし、生き残った人々も心に恐怖を抱えていました。原爆病といういつ訪れるとも知れない影響を。

私が生まれた時に、医者へ土下座までして「ありがとうございます」と例を言った父の心を思うと今でも胸が熱くなります。

そして決して癒されることのない、8月16日に目にした光景や。悲しみの体験。

今、広島に行けば、語り部として多くの方が、当時の事を語って聞かせてくれます。

しかし、彼らにとって、8月16日のあの日を思い出すのがいかに辛い事であるかという事は決して忘れてはならないと思うのです。

あのような悲劇は二度と起こしてはならないと、自らが経験したことを語り残そうとする事に使命を感じ、しかし実はどれだけエネルギーが必要なのかという事を。

本音として、心の奥深くに封じ込めた深く傷ついた部分には、触れてほしくないという思いが必ずやあろうと思います。

終戦の日が近付くに従い、特集番組が組まれ、あの当時の映像が流れます。しかしあの映像は経験した人々の心の痛いところをえぐるようなものではないでしょうか。

しかし、事実を知る事は大切な事に違いはないのです。

まとめ

何か語りつくせぬ思いを抱きつつまとめに入ります。

何事も人間経験しなければ理解する事は出来ません。しかし、語り部たちが思い口を開いた言葉を私たちは想像力を総動員して自らの痛みとして感じ、受け取らなければならないと思うのです。

私も被爆二世として身近な人たちから、ぽつりぽつりと被爆体験を聞いてきました。しかし言葉というものは限界があり、自分の身の丈以上のものはなかなか理解できません。

しかし人間には幸いにも言葉を補う想像力という大きな力を持っています。

戦争というのは何か、ムツカシイ話ではなく、その本質を人間が心に受ける痛さを、感覚をもって理解しなければならないと、又そんな時代にあることを強く感じるこの頃です。

「8月6日原子爆弾が広島に!73年前の8時15分への被爆二世の思い」として心の衝動に任せ纏めました。最後までお読みいただきありがとうございます。

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