【北条義時】とはどんな人物?源頼朝の継承者で武家体制の完成者

この記事からわかる事

1. 北条義時は何をした人? ~概略を知る~

2. 北条義時はどんな人物? ~人生を詳しく知り、人物像を垣間見る~

3. どうして貴族の時代から武士の時代に転換したの。~時代背景~

4.北条義時年表

 


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【北条義時】は何をした人? ~概略を知る~

【北条義時】は何をした人?概略

北条義時は何をした人なのか、まずは概略をまとめてみましょう。

  • 源頼朝の挙兵に参加、幕府成立後は頼朝の側近中の側近として仕えた。
  • 頼朝亡き後、政治の実権は御家人中心の政治となる。同時に御家人同士の争いが激化。最終的に執権として権力を掌握。
  • 3代将軍源実朝が亡くなった後、承久の乱で朝廷との戦いに勝利。武士が世を支配する時代を確立させ、強大な北条氏の礎を築いた。

【北条義時】はどんな立ち位置の人だった?

家系図を見てみましょう。

否が応でも時代の真っ只中に放り込まれる立場にあったことがよくわかります。

父、北条時政は頼朝の義父という圧倒的に有利な立場にあり、初代執権として鎌倉幕府を支えた権力者です。

執権とは

鎌倉幕府で政務を行う組織を政所といい、その政所の長が執権と呼ばれました。

将軍を補佐し政務を統括するのです。

 

又、義時の兄、嫡男の宗時が頼朝の旗揚げで早くに戦死。

義時は義理の兄頼朝から信頼され側近として仕えます。

源頼朝亡き後、父北条時政が初代執権として存在していました。

強い絆で結ばれた姉の政子は尼将軍とも呼ばれるほど強い影響力を持ちます。

以上のように北条義時は、非常に有利な立ち位置にありました。

 

【北条義時】等がつくった武士の世

北条義時の果たした最も大きな役割は、承久の乱で朝廷に勝利し、完全に朝廷の力を凌駕。

鎌倉幕府を全国支配するまで大きくしたのです。

頼朝が理想とした武士の国家です。

 

同じ武士の世であった平清盛の時代とは何が違うのでしょう。

清盛はあくまでも平安貴族の権力機構の中にありました。

平安貴族の最高位、太政大臣の地位を得て強大な権力を手中にしました。

一説によれば平清盛は白河上皇の落とし胤という極めて信憑性の高い説があるほど。

平氏は公家の面をかぶった武士でした。

 

一方で鎌倉幕府は、平安貴族の権力機構から意識的に距離を置きました。

鎌倉の地で将軍を中心とする武士による武士の政治を目指したのです。

 

頼朝が求めた征夷大将軍は東北地方の蝦夷征討の為設けられた、律令の規定にない令外の官です。

独立政権を作るにはうってつけの官職でした。

 

頼朝は平氏とは全く異なるやり方で権力を手にしたのです。

貴族から距離を置き、都から離れた鎌倉に武士の独立した社会を作りました。

 

【北条義時】とはどんな人物? ~影響を与えた人と人生の出来事~

もう少し詳しく北条義時がどんな男だったのか見てゆきましょう。

 

北条義時は小豪族北条氏の次男坊でした。

義時には先述の通り兄がいました。

北条家を継ぐべき嫡男の宗時が。

 

もし平穏な日々が続いていたなら。。

北条義時は風光明媚な伊豆の地で兄に仕え、いつしか歴史の深い層に消えていった事でしょう。

若き日の北条義時は、よもや自分が歴史に名を残す人物になろうとは思いもしなかったに違いありません。

 

【北条義時】の運命を変えた源頼朝

そんな北条義時を歴史の表舞台に引きずり出したのは源頼朝でした。

頼朝が姉の政子を妻に娶った事によって。

時代の象徴的な中心人物が義兄弟となり運命が転換しました。

あまりの変転ぶりに義時自身驚いた事でしょう。

 

鎌倉幕府の成立は後世からみれば必然の流れのように思えます。

しかし当時を思えば一流罪人の身であった頼朝の旗揚げは「窮鼠猫を咬む」そんな状態でした。

天下に君臨する平氏に対し、都から離れた伊豆の小さな場所で、ほんの僅かな兵力で立ち上がったのです。(石橋山の戦い)

所詮は多勢に無勢、命からがら敗走して九死に一生を得ます。

この戦いで北条義時は大切な兄宗時を失いました。

 

しかし時代は動きました。

続々と頼朝の元に関東武士団が集まり、あれよあれよという間に大勢力へと拡大しました。

 

大きな賭けは、反権力の時代の波に乗ったのです。

ついには稀代の天才軍略家源義経の手を借りて平氏を瀬戸内海に沈める奇跡的な大勝利をあげます。

 

天から運命を授けられていたのではないかとすら思える頼朝の強運に引かれて、北条義時も歴史の表面に顔を出すのです。

 

【北条義時】の父 ~息子見せた背中~

北条義時の父時政が頼朝に賭けようと腹をくくった胆力と先見性に驚かされます。

無謀な賭けの向こうに、未来がはっきり見えていたのでしょう。

 

北条時政は頼朝と政子の結婚を簡単に許したわけではありませんでした。

二人が恋仲にある事を知り、時政は平家の血をひく伊豆の目代、山木判官に政子を嫁がせました。

しかしすぐに頼朝と政子は駆け落ちします。

 

北条時政は頼朝と政子の結婚を、平氏の目を欺くために、わざと見逃し手引きしたフシすらあるのです。

誰も手を出せぬ伊豆山権現へ逃げ込ませる。。

 

平清盛という絶対的な権力者が君臨する時代にあって、北条時政の心の目には何が見えていたのか、知りたい衝動に駆られます。

晩年、時政は妻に振り回され身を滅ぼしますが、北条義時は、父の偉大な背中から、はかり知れぬ影響を受けたことでしょう。

 

【北条義時】の義兄 源頼朝の信頼 ~いかに多くを吸収したのか~

北条義時は頼朝の親衛隊の筆頭の地位にありました。

頼朝にとって北条義時は頭のきれる使える男、しかも自分の義理の弟、親衛隊としてうってつけの存在だったのでしょう。

歴史上の巨人、源頼朝の側近くではかり知れぬほど大きなものを吸収した事でしょう。

頼朝の理想とする世界を見、一方で朝廷や御家人との駆け引きを目の前に学び、北条義時は頼朝の志を継ぐに足る存在となっていったのではないでしょうか。

平凡な運命を送るはずだった青年が、大きく成長してゆく姿が目に浮かびます。

 

【北条義時】晩年の頼朝に何を思ったか。~娘可愛さに理性を失う~

朝廷に影響されぬ武士の秩序を目指した頼朝でしたが、晩年矛盾した行動に出ます。

頼朝と政子の間には愛娘大姫がいました。

まだ幼い大姫は木曽義仲の息子義高と娶わせられました。

義高は体の良い人質です。

 

木曽義仲を追討すると、義高も殺されてしまいます。

自ら父の仇である平氏を滅ぼした頼朝だけに、人質である義高を生かしておくことはできません。

しかし以降、愛娘大姫は心に大きな傷を受けてしまいます。

 

心塞ぐ愛娘の為、あろうことか入内させようとするのです。

これは明らかにこれまでの政策と矛盾するものです。

結局は、のらりくらりと後白河法皇と、法皇の側室で権勢をふるった丹後局にもてあそばれたあげく入内は成らず。

大姫も気を塞いだまま亡くなりました。

 

頼朝に対する当時の御家人たちの冷めた表情が目に浮かぶようです。

成熟した義時は何を思ったでしょうか。

ほどなく頼朝は落馬して亡くなりますが、果たしてこれは単なる落馬事故だったのか?

何故か吾妻鑑は多くを語りません。

 

【北条義時】鎌倉殿の13人の一人に

頼朝亡き後、源頼家が後を継ぎます。

この時、13人の御家人による合議制が敷かれます。

これが鎌倉殿の13人で、義時もその一人に選ばれました。

  • 北条時政 
  • 北条義時 
  • 三浦義澄 
  • 和田義盛
  • 梶原景時 
  • 足立遠元
  • 安達盛長 
  • 八田知家 
  • 比企能員
  • 大江広元 
  • 二階堂行政
  • 三善康信 

以降御家人同志の争いが激しくなります。

梶原景時が、頼朝の異母阿野全成が頼家の手により殺されます。

大きな事件は頼家の重病と共に起こりました。

当時頼家の乳母父であった比企能員及びその一族が大きな権力を得ていました。

頼家病気の間に比企一族は北条氏らによって殺されてしまったのです。

頼家は回復後激怒し、時政を追討しようとしますが逆に頼家が伊豆修善寺へ幽閉、後殺されました。

義時は政治を操る立場としてリアルな現場で成熟してゆきます。

 

【北条義時】は北条家の跡継ぎではなかった

ところで。

北条義時に嫡子である兄が存在した事は先述の通りです。

しかし、頼朝旗揚げの戦の中で兄は戦死。

かといって次男の義時に嫡子の座が巡ってきたわけではありません。

 

当時、義時の実の母は既に亡くなっており、父時政には都から迎えた愛妻牧の方がいました。

北条家の跡目は牧の方の子に継がせようと考えたのでしょう。

実は義時は、かつて北条ではなく江間姓を名乗っていました。江間義時。

諸説あるも、北条家の相続者からは外れていた事が考えられます。

 

【北条義時】はなぜ北条家の跡継ぎとなったのか

大きな変化は3代源実朝の時代に訪れました。

北条時政の妻牧の方が起因する事件がおこりました。

酒宴で畠山重忠の息子重保と平賀朝雅が諍いになりました。

その場は収まったものの牧の方の腹は収まらず、あろうことか夫時政をたきつけて謀反の疑いをかけたのです。

義時の盟友、文武に秀でて尊敬を集めていた畠山重忠は父北条時政の策略により殺されてしまいました。

 

その後、時政と牧の方は、牧の方の娘婿平賀朝雅を強引に新将軍に就けようと画策しました

老いたか時政。

あまりに強引なやり方についに義時と政子は動きました。親子は対立。

北条時政と牧の方は義時らによって隠居させられたのです。

そして父に代わって義時が鎌倉幕府2代目の執権となります。

 

後に北条氏の惣領を意味する得宗として鎌倉幕府の中心に踊りでたのです。

 

【北条義時】と源実朝の暗殺

都に対する志向の強い実朝は、妻に後鳥羽上皇の寵臣坊門信清の娘で、後鳥羽のいとこにもあたる信子を正室にむかえます。

又、任官を願い武家としては初めて右大臣となりました。

頼朝恩顧の武士はこれをどのように感じたことでしょう。

 

1219年(建保7年)1月27日、鶴岡八幡宮で源実朝の右大臣拝賀の式が執り行われました。

都からも公家が参列する衆人注目の中で決行されたのです。

 

雪の降り積もる日でした。

 

夜に式典から退出する中、頼家の息子公暁に「親の敵はかく討つぞ」と打たれたのです。

この時、太刀持ちの源仲章も打たれましたが、実は本来この役は北条義時が行う予定だったもの。

直前に体調が悪いと、源仲章に替わってもらっていたのでした。

 

暗殺の黒幕は北条義時とも、御家人三浦義村とも、後鳥羽上皇ともいわれています。

真相は藪の中ですが、果たして義時が黒幕として、わざわざ太刀持ちを直前に替わるのでしょうか。

おそらく義時がギリギリピンチを切り抜けたのではないでしょうか。

 

【北条義時】はついに朝廷と対決する

次第に力をつけてくる鎌倉と対立する存在として、朝廷方には上皇という最高権力者がいました。

実朝が暗殺された当時、後鳥羽上皇が君臨していました。

そしてついに義時追討の宣旨が発せられたのです。

宣旨とは、天皇・太政官の命令文書です。

国家の頂点を義時は敵に回したわけですから義時や鎌倉武士はビビったことでしょう。

この時有名な北条政子の、「頼朝の御恩を今こそ返すべき時」と渾身の力を込めて演説し、鎌倉武士は一致団結しました。

 

北条義時らは敢然と立ち向かい勝利し、武士の手により戦後処置がなされました。

そして本格的な武士の時代が始まりました。

 

天皇家に権力を振りかざした義時を、後世悪逆非道な人物と評価されれることになります。

しかし義時には、頼朝から引き継いだ理想を求める目と、現実を冷徹に対処するリアリストの目をもって行動していたのではないでしょうか。

 

どうして貴族の時代から武士の時代に転換したの?~時代背景~

ここでちょっと時代背景を整理しておきましょう。

鎌倉時代、既存の秩序がひっくり返る莫大なエネルギーが動きました。

この大きなエネルギーはどこから生まれたのでしょう。

平安時代以前から積み重ねられてきた社会の矛盾が不満となって遂にはち切れ、武士たちを結束させたのでした。

当時の武士は身分の低い存在

あなたは武士と聞いてどんな姿をイメージするでしょうか?

戦国時代の華やかな甲冑に身を固めた武士でしょうか。

江戸時代の武士でしょうか。

 

平安時代の武士は後世の武士のイメージとは異なります。

 

かつてNHKの大河ドラマ「平清盛」では武士が土に汚れた暗いイメージで描かれていました。

当時の武士は貴族に対し極めて身分の低い存在だったのです。

大河ドラマは極めて史実に忠実に描いていました。

 

不安定な土地の所有権

武士たちが抱えていたのは不安定な土地の所有権の問題でした。

 

古く奈良時代に土地は「公地公民」、みんなものでした。

しかし、「墾田永代私財法」により私有化が始まりました。

なし崩し的に公地公民の理想は崩され、世の中は荘園と呼ばれる私有地だらけとなったのです。

 

地方の武士たちは土地を開墾し自分たちの土地を広げてゆきました。

しかし所領争いは激しく、力の無い者たちにとって土地の所有権は不安定なものでした。

 

そこで安定的に土地の権利を守ろうと、中央の貴族へ土地を寄進し、貴族の権威をバックに自らは土地の管理人として守ろうとしたのです。

どんどん権力ある者へと富は集中してゆきました。

 

土地所有者としての安定した権利が欲しい、地方武士たちの切実な願いでした。

長い貴族政治で腐敗して生じた富のアンバランスが極限に達し、世の人々の反感は爆発寸前だったのです。

 

鎌倉幕府は徐々に権利を得ていった

しかし一朝一夕に鎌倉幕府の権力が得られたわけではありません。

朝廷に対し何かと理由をつけては権利を削り取ってゆきました。

ヒーロー源義経は大いに利用されました。

 

天才義経は、あれほど権勢を誇った平氏を嘘のように瀬戸内海の海中に滅ぼしました。

軍事面では天才でした。

英雄源義経は、しかし何故か政治を理解する力に乏しかったようです。

 

源義経は朝廷から、頼朝の許しを得ず官位を得ます。

朝廷から距離を置き、武士の秩序を作ろうとする頼朝の理想に対して、義経の勝手な行為は裏切り行為に他なりません。

頼朝を激しく怒らせました。

 

対して後白河法皇は鎌倉に対する為、巧妙に義経を手なずけ、自分の手駒にしようとしたのです。

義経に対して源頼朝追討の院宣を与えます。

 

しかし後白河法皇の読みは外れ、態勢不利と知るや頼朝に義経追討の院宣を発します。

これは後白河法皇の大いなる失敗でした。

頼朝は義経追討を理由に、脅すように守護地頭の権利を勝ち取りました。

守護と地頭

守護 国内の御家人の監督・軍事・警察権。国ごとに設置。

地頭   荘園や公領の管理や年貢の取り立てる。荘園や公領に設置した役職。 

 

実に土地の支配権を握る大きな権利を得たことになります。

さらには、源義経を北の脅威であった奥州藤原氏がかくまった事を理由に、繁栄を誇った藤原氏を滅ぼす事に成功します。

義経は皮肉なことに、壇ノ浦で平氏を滅びした戦功より、追討される身になってこそ、頼朝に対して極めて大きな貢献をしているのです。

まとめ

北条義時は歴史上の人物の中でも顔が見えにくい人物です。

御家人の血で血を争う中を生き残り、北条一族の祖といえる強大な力を持つに至ります。

怜悧な独裁者というイメージが強く、人間義時に対する歴史上の評判は必ずしも良いものではありません。

しかし、北条義時は源頼朝を心底信頼し、頼朝死後も自らの手で頼朝の目指したものを実現しようとした理想主義者という側面もあるのではないでしょうか。

近寄りがたい権力者の奥に、人間的な光が垣間見えます。


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北条義時関連の年表

  • 1160 永暦元年

頼朝伊豆に配流される

  • 1163 長寛元年 1歳

北条時政の次男として誕生

  • 1180 治承4年 18歳

源頼朝の挙兵に参陣

  • 1181 養和元年 19歳

寝所祇候衆に加えられる
平清盛没

  • 1183 寿永2年 21歳

嫡子泰時誕生
木曽義仲入京、平家都落ち

  • 1184 元歴元年 22歳

平家追討使源範頼に随い西海に
木曽義仲滅亡
一ノ谷の合戦

  • 1185 文治元年 23歳

平家壇ノ浦に沈み滅亡
守護と地頭設置の勅許を得る

  • 1189 文治5年 27歳

源義経没。奥州藤原氏滅亡

  • 1190 建久元年 28歳

頼朝上洛、義時先陣の随兵を勤める。

  • 1192 建久3年 30歳

後白河法皇没
源頼朝征夷大将軍に任ぜられる

  • 1193 建久4年 31歳

富士巻狩り 曽我兄弟の仇討

  • 1199 王治元年 37歳

源頼朝没、源頼家が後を継ぐ

  • 1200 王治2年 38歳

梶原野景時敗死

  • 1203 建仁3年 41歳

源頼家重篤な病に。(奇跡的に生還も翌年出家)
源頼家の乳母で権力を手にしていた比企氏一族殺害
源実朝征夷大将軍

  • 1204 元久元年 42歳

源頼家殺害
北条時政落飾 伊豆に下向

  • 1205 元久2年 43歳

畠山重忠討伐の大将軍として重忠を討つ

  • 1205 健保元年 51歳

御家人和田義盛を討つ

  • 1219 承久元年 57歳

源実朝公暁に討たれる
“将軍後継として親王の東下を要請するも
左大臣藤原道家の子三寅下向”

  • 1221 承久3年 59歳

北条義時追討の宣旨が下される。
19万騎の軍勢上洛(承久の乱)
“後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇配流、
その他関係者断罪。”

  • 1224 元仁2年 62歳

病にて没


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