麒麟がくる|光秀の妻煕子(ひろこ)は幸せな生涯を送ったのか

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NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」では女性たちが実に魅力的に描かれていますね。

第11回で登場した十兵衛の妻となる、妻木城の姫煕子を木村文乃さんが魅力的に演じていました。

子供たちとかくれんぼをして、笑顔で花びらをふりまく姿は、あふれる愛を惜しみなく与える女性であることを象徴しているのでしょう。

後に、謀反人となる光秀に嫁いだ、この女性は、この後、どのような生涯を送ったのか気になりますね。

ここでは、妻煕子がどんな生涯を送ったのか、幸せな生涯だったのか、少ない資料からほの見える、妻煕子の事をお伝えしたいと思います。

資料は少なく、多くは推測するしかありませんが、苦労の多かった夫光秀を心から愛し、尽くし、幸せな生涯を送ったのではないかと思います。

以下の三つの逸話から煕子という人を想像してみたいと思います。

・自らの髪を売って光秀を助けた話

・美しく気高い女性、細川ガラシャを生み、育てた話

・光秀が重病となった時、必死に看護し、自ら病に伏せ亡くなった話

光秀と仲睦まじく幸せな生涯を送ったであろう煕子の姿を想像してみましょう。

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自らの髪を売って光秀を助けた話

夫のために美しい髪を切ってお金に変える妻に、思わずオーヘンリーの「賢者の贈り物」の妻の姿を思い出す方も多いのではないでしょうか。

「賢者の贈り物」はオーヘンリーの代表作、クリスマスイブに貧しい愛し合う夫婦がお金のない中でお互いのプレゼントを贈った心暖まるお話です。

妻は美しい髪を売って、夫が大事にしている懐中時計につけるプラチナの鎖を買うために、自らの美しい髪を切ってお金に変えました。

夫は妻の美しい髪を梳かすための櫛を買う為に、大事にしていた懐中時計を売ってしまいます。

プレゼンとは役に立たないものとなってしまいますが、お互いに大事なものを犠牲にしても相手への思いやりを示すことが、物質主義を超えた本当の賢者であるとオーヘンリーは讃えています。

 

光秀は、美濃では小領主の主でしたが、斎藤家が滅びると浪々の身となり、越前朝倉義景のもとへ身を寄せます。

しかし当時収入は少なく、苦しい生活を送っていました。

そんな中で、光秀は連歌の会を催さなければならなくなりました。

当時貧乏していた光秀には酒宴を開くお金もなく、対応に窮していましたが、それを見かねて煕子は自らの美しい髪の毛を売ってお金に変えました。

当時の女性にとって髪の毛は大切なもの。

髪を切るという行為は出家する時など、自らの命と引き換えるような行為であり、今の時代に髪を切る行為とはまるで意味合いが異なります。

光秀に心から尽くそうとする美しく健気な覚悟が垣間見えます。

歴史は文字が残るのみ、どんな心情であったかは推し量るしかありませんが、相手に身を捧げる女性であったのでしょう。

 

光秀がO・ヘンリーの小説のように、懐中時計にかわる何かを妻のために売ったかどうかは定かではありませんが、光秀は妻に心から感謝しました。

煕子が亡くなるまでの間、側室を持たなかったと言われています。

 

この煕子の逸話は、後に江戸時代の俳人松尾芭蕉が愛しました。

月さびよ 明智が妻の 咄せん

と詠んでいます。

美しく気高い女性、細川ガラシャを生み、育てた話

細川ガラシャといえば、戦国の美しい女性として有名すぎるほど有名ですね。

又、明智光秀の娘であり、実母が正妻の煕子でした。

細川ガラシャの非業の死はあまりに有名ですね。

時代は光秀も煕子も既にないずっとのち、関ヶ原前夜の話になります。

ガラシャは明智光秀の親友だった細川藤孝の息子、忠興に嫁いでいます。

関ヶ原の合戦が起きようとしていたころ、石田三成は当時大阪にいた細川ガラシャを人質に取ろうとしました。

しかし、それを拒みガラシャは屋敷に火を放ち、キリシタンであったため自害はできないので、家臣に頼み最後を遂げました。

辞世の句、「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」

戦国女性として腹が座った凛とした生涯ですね。

ガラシャがクリスチャンになった理由ははっきりとしていません。

しかしマリアのような母の存在、大事なものを犠牲にしても相手に尽くそうとした母煕子の姿が思い浮かんでなりません。

 

光秀が重病となった時、必死に看護し、自ら病に伏せ亡くなった話

天正4年11月7日(1576年11月27日)煕子は、亡くなります。

本能寺の変の6年前です、享年は36とも42とも46とも言われています。

夫・光秀は煕子がなくなる前、織田と石山本願寺との天王寺の戦いの後、5月に過労のため体調を崩しました。

そのため煕子は夫・光秀の回復を祈り一身に介護しました。

そのかいあって、光秀は7月になると体調は回復したといわれています。

体調を崩した光秀を懸命に看病していた煕子でしたが、その後、まもなく亡くなってしまいます。

その死因が看病疲れであったといわれています。

まさに自らの命を光秀に捧げたような生涯ですね。

 

光秀と前後して病となった記録は、明智光秀と親しかった公卿吉田兼見の日記『兼見卿記』に書かれています。

そこには、5月26日に光秀の妻(煕子の名前はでてきませんが)が光秀の病気平癒の祈願を依頼し、10月10日には光秀が妻の病気平癒の祈願を依頼した事がわかります。

 

美しい方だったようです。

織田信長が煕子のあまりの美しさに抱きついたという逸話が残っています。

妻の死は、どれほど光秀の心に大きな穴を開けたことでしょう。

 

まとめ

当時の女性はなかなか記録が残っていません。

亡くなった時期も『明智軍記』によれば光秀が山崎の戦いで亡くなった後、坂本城で自害したとも。

正確な史実はつかめません。

しかし、少なくとも才色兼備の素晴らしい女性であったことは事実でしょう。

光秀と共に生き、光秀に捧げた生涯はきっと幸せなものだったのではないでしょうか。

光秀は幸せな人物ですね。

 

明智光秀とは、こんな素敵な女性が愛するに値する人物だったのでしょう。

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