西郷どん最終回|その後妻や子供たちや兄弟はどうなった?

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西郷どんの最終回が終わってしまいましたね。

最終回悲劇的にならず、からりとした展開だったのが良かったです。

しかし西郷どんも大久保も亡くなってしまい、最終回が終わってしまいました。なんだか寂しいですね。

心に余韻が響いています。

その後、ドラマで描かれていた登場人物たちは、どんな人生を歩んだのでしょうか。

気になりますよね。

妻や子供たち、兄弟や熊吉、居候の雪

「西郷どん最終回|その後妻や子供たちや兄弟はどうなった?」と題して調べてみましたので、宜しければお読みください。

 

 

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西郷どん最終回(ネタバレ)

西郷どんは、糸さんや菊次郎と別れ、生き残った西郷たちは延岡から山を越えて薩摩へ戻り、鹿児島城の後ろにそびえる城山にこもります。

生き残った兵たちは、西郷を囲んで最後まで明るく、何とか西郷を助けたい大久保は、投降すれば西郷の命を助ける、との文を送ります。

しかし、西郷は皆の前で笑いながら破り捨てます。この期において、西郷隆盛が生き残る事は有りえないですよね。

心の底では西郷を失いたくない新政府軍もいよいよ最後の総攻撃をかけなければならない時刻がやってきました。

明るく勇敢に戦う西郷軍、しかし一人また一人と倒されていきます。

そして西郷にも足と腹に銃弾を受けて倒れます。

西郷家では西郷どんの最期を思いながら銃弾や砲撃の音を聞いています。

ドラマの後、西郷の周りの人々はどのような人生を生きたのか気になりますね。

西郷糸

妻の糸さんはどんな人生だったのでしょうか。西郷が亡くなった時糸さんはまだ34歳でした。新政府への反逆者として鹿児島でひっそりと暮らしていました。

新政府の縁者から、援助の手が差し伸べられますが、きっぱりと断り続けます。

明治22年に西郷は許される事になりました。一度息子の結婚式と上野公園の西郷隆盛像の除幕式で上京します。その後息子午二郎の家に身を寄せ、大正11年(1922年)に79歳で亡くなるまで質素な生活を続けました。

愛加那

愛加那は息子と娘を手放した後も島で暮らし続けます。明治35年(1902年)9月28日、農作業中に倒れ65歳で亡くなっています。

西郷寅太郎

西郷の息子寅太郎は、西南戦争の後、明治17年(1884年)に勝海舟らの働きかけもあって、ドイツ留学を命ぜられ、13年もの留学の後、帰国して、軍人となります。

1902年(明治35年)に父隆盛の維新の功により、華族に列せられ、貴族院議員に就任しました。

1919年(大正8年)にスペイン風邪に感染します。当時習志野俘虜収容所長をつとめていましたが、無理を押して年頭あいさつの為、収容所を訪れ風邪を悪化させて肺炎により53歳で亡くなりました。

長男の隆幸は夭折しており、家督は次男の隆輝が継ぎます。隆輝には継嗣がいなかったため、寅太郎の三男・吉之助が継ぐ。

吉之助は貴族院議員・参議院議員となり第2次佐藤内閣(昭和43年)で法務大臣を務めています。

西郷菊次郎

沖永良部で愛加那との間に生まれた菊次郎は、ドラマでも西田敏行さんが演じていた通り、京都市長をつとめました。

23歳の時に外務省に務め、その後アメリカに留学、日清戦争後日本が支配した台湾で基隆支庁長、宜蘭長官という重職を担っています。

帰国後京都市長を7年務め、「京都百年の大計」として発電、上下水道整備、市電設置の京都三大事業を推進しています。

市長辞任後、鹿児島県に帰り、昭和3(1928)年68歳で心臓麻痺により亡くなりました。

西郷午二郎

西郷の息子午二郎は、父の功績が認められると、兄のように政界には進まず経済界、日本郵船に入ります。

そして実業家として成功し、母や寅太郎の息子を引き取ります。

そして西郷従道の土地の一部を譲り受けて、悠々自適の生活を送り、昭和10年(1935)に65歳で亡くなっています。

西郷従道

弟の西郷従道は新政府で階級は元帥海軍大将まで栄達します。

新政府で文部卿、陸軍卿、農商務卿、海軍大臣、内務大臣、貴族院議員を歴任しています。

内閣総理大臣候補に再三推されましたが、兄・隆盛が逆賊の汚名を受けたことを理由に断り続け結局総理大臣の職につくことはありませんでした。

明治35年(1902年)、胃癌のため59歳で亡くなりました。

菊草

沖永良部で愛加那との間に生まれた菊草は、苦労の多い人生を送ることになります。

西南戦争の前に、大山巌の弟、大山誠之助と婚約します。しかし西南戦争で敗れ、誠之助は囚われの身となり、釈放後晴れて結婚します。

しかし結婚後は、誠之助はろくに働かず借金を重ね、又夫のDVにより不幸な結婚生活を送ります。

ようやく明治40年になって夫と別居し、菊次郎のもとへ身を寄せます。しかしそれも束の間、2年後に47歳で亡くなっています。

熊吉

西郷どんでも触れられていましたが、熊吉は後、西郷従道に呼ばれ、目黒の西郷邸に使えることになりました。

島津久光

家族ではありませんが、この人も気になりますね。

西南戦争の後も政府は久光の処遇に苦労し、最高級で遇しています。

明治20年(1887年)に71歳で亡くなり、鹿児島で国葬が行われました。

そういえば、久光に仕えた海江田武次はその後どうなったのでしょう。

海江田はその後、栄達します。

西南戦争の後、明治14年(1881年)に元老院議官となっています。

明治20年には、ウィーンに遊学、明治23年には貴族院議員、明治24年には枢密顧問官、明治28年をつとめ、明治39年(1906年)10月27日に75歳で亡くなっています。

まとめ

その後も家族はそれぞれの意思で人生を全うしました。

時代に翻弄されながらも、彼らの人生をそれぞれ生きていったんですね。感慨深いですね。

「西郷どん最終回|その後妻や子供たちや兄弟はどうなった?」としてまとめてみましたがいかがでしたでしょうか。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

 

 


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